一章 珠洛








「この国の、なんと滑稽なことよ」

宴が続く中呟かれた言葉は、しかし、誰にも咎められることはなかった。否、この場で彼を咎められる者などいるはずもない。濁る目でその場を睨むように見渡すその人は、誰もが敬い畏れる珠洛の主、藍王であったからだ。
玉座のひじ掛けに腕をつき、長く伸びた髭を撫でつけながら、片手で椀に溢れるほど盛られた果物をひとつ毟り取る。そうして、果汁がその腕を伝うのも気にせず口に含んだ。
芳醇な香りを纏う果汁がてらてらと赤く唇を濡らし、さながら血肉を喰らったようにも見える。
すると、つ、とその唇をぬぐうように白い指がすぐ隣から伸びた。
愛妾のひとりである。結いあげた栗毛色の髪が見事だった。

(名は・・・なんといったか)

数多く囲う美しい姫君の名を、藍王は覚える気などなかった。愛だの情だの一欠けらも興味がないからであり、興味がないからこそ、そのまま好きにさせて視線を宴の続く間へと戻した。すると女は気を良くしたように、さらにしな垂れかかった。

「何をご覧になってるの?」

きらびやかな着物の合わせからのぞく豊満な胸を押しつかるように腕に絡みつきながら、女は紅い唇で首筋に息を吹きかけた。

「申したではないか」

肉好きの良い腰を抱きよせながら、藍王は嗤う。
コテで巻き付けた髪に唇を寄せてやると、女は艶やかに笑んだ。

「滑稽な国?」
「そうだ、その縮図だと思わぬか」

女は瞬いて、藍王の視線の先を眺めた。

「・・・・宴が?」

藍王は笑みを深くする。

「人が人たるためには、所詮奪うことでしか成り立たぬ。力あるものが、さらなる力を得に戦地へ赴く。この世の理だと思わぬか」
「・・・?あたくしは、むずかしいお話はわかりませぬ」
「よい、よい。わしは賢いおなごは好かぬ」

そうやって口づけると、女は「馬鹿にしていらっしゃるの?」と唇を尖らせながらも、うっとりと藍王を見つめた。
藍王は赤い実をひとつ摘み、口へ放り投げると、ゆっくりと咀嚼しながら宴を見つめる。
――――煌びやかで、賑やかな場は、一見してこれから戦地へ赴くようには見えない。しかし、ひとりひとりの目はぎらぎらと輝き、飢えた獣のようだ、と感じる。

(力で押さえつけることに異を唱える者もいる。しかし、ひとたびその力のある地位を得てしまえば、人はただの獣になり下がるのだ)

そして、先ほどの、呪師のむすめも。
ちらりと眼下に目をやれば、壁の片隅でさきほどの戦方の秀才と、なにやら話し込む姿が目についた。
その黒いつややかな髪が、藍王に記憶の中の女を思い起こさせる。
おもえば、かの女も世迷言を口走り、最後まで己のものとはならずにこの世を旅立ったのだった。
美しい女。そして自分を見る、諦めたまなざし。言い淀む、こえ。震えたゆびさき。

(自分を受け入れさえすれば、愛してやらぬことも、なかったのに。)

浅はかな思いを抱くものはいつだって自らを破滅させるのに、記憶の中の女も、壁際で話し込む呪師のむすめも、気づくことはない。

「・・・・まこと、可笑しなことよの」
「まあ!陛下ったら、あたくしに酷いことばかり!」

おもわず呟いた声に、隣の女が憤慨して身を起こすと、藍王はまたひとつ嗤った。

(これくらい、馬鹿な女であれば、愛してやらぬことも、なかったのに。)

「―――陛下」

すると、後ろから息をつめたような声がかかった。
藍王は沈んだ意識を浮上させて、身体を動かさず果物に伸ばす手を止めないまま、何だ、と重厚な声音で答えた。
声の主は陰に潜んだまま、言った。腰を折る気配がする。

「ひとつ、手に入りましてございます」
「ふん、まだだ、まだ足らぬ」

濁った眼を細める。鷹のような獲物を捉えて離さない瞳が、左目の傷跡によって凄味を増した。

「使えぬものの末路を、知らぬわけではなかろう?」

とたんに、影が息を詰まらせた。

「、陛下、・・・」

絞り出した声音に、藍王は追い払うように手を振った。

「分かったのであれば、ゆけ。」
「――御意。」

影は瞬く間に失せて、ただの賑やかなざわめきだけが、また辺りを覆った。
それを見やり、いつも思うのだ。

(この世は、血の上で成り立っている。)

今この瞬間も。
日が昇り、また沈みゆく大地も。
血で贖い、血でかたちどる。
―――滑稽だと、かの女は言った。それですべて満たされたつもりなのか、と。
その問いのほうが、滑稽だった。いつだってそうであったし、これからもそうなのだ。
このこころをいつも満たすのは、永遠の虚無だ。全ての根底には、常にそれは正答であるかのように佇んでいるのだから。何の疑いもなく、整然とつづいていくのだから。


*****


漣は去っていく崔慈の背を見送って、ようやく気持ちを鎮めるように息を吐いた。

「頭が痛い、わ・・・・」

何だかんだと強い意見を述べても、そこにはなんの根拠もないのだから、ほんとうは手の震えるほどの緊張を伴っている。
しかし、ここは王宮という、魔物の巣窟だ。 さらりとかわせるだけの度胸が必要なのだ。
漣はまたひとつ、溜息をつき、空いたグラスを給仕に下げさせると、再び紅い酒の入ったグラスに手を伸ばした。
が、間に紫稀の手が滑りこみ、その漣の手を止めた。

「もう結構ですので」

さらに彼は、給仕を下げさせてしまった。

「・・・・紫稀」

まだ飲みたい、と目で訴えると、彼は一見すると感情のこもらない銀色の瞳で、漣どの、と窘めるように言った。

「そろそろお止めになったほうが」
「そういう気分なのよ」
普段、大きな宴であってもあまり飲酒をしない彼女だったため、紫稀は崔慈と話していたときの彼女の酒の煽りように少し驚いていた。 と同時に、それだけ心が穏やかではなかったことに気づいていた。

「こういうものに頼るのはよくないと、おれは思いますが」
「頼ってなんかないわよ、もう」

飲みたい時に飲ませてもらえないの?と唇を少し尖らせた彼女に紫稀は眉をつりあげた。

「では言い方を変えます。気持ちをこらえるのに酒に頼るのは間違っています」

言うと、びくり、と肩を震わせてから、彼女は諦めたように笑った。

「なーんでもお見通しなのね、紫稀は」
「・・・・だてに一年、あなたの補佐官をやってませんから」
「私のお酒の飲み方まで補佐されたくはないのだけど」
「でしたら、その補佐に心配させるような飲み方はなさらないでください」

漣は二、三度またたいた。

「したの?心配」

紫稀は、ばつが悪そうに視線をそらすと、俯きながら言った。

「します。おれはあなたの補佐官です。もっと頼ってほしいに決まってます。」

崔慈に嘲るように言われた時も、彼は真っ先に庇ってくれた。

(『漣どのには、漣どのの考えがある。』、か)

戦にばかり赴くものの増える中、自分の考えがどこへ向かっているのか分からなくなる時もあった。だから、そういう考えもあってよいのだと、許された気がした。
思い出すと心が暖かくなり、漣は紫稀の銀色の短髪をぐしゃぐしゃと撫でた。

「っ、なにをなさるんですか、おれは子どもじゃ・・・」
「わかってるわ。あなたはわたしの補佐官なのでしょう?」

ありがとう、と笑うと、紫稀はほめられた子供のように顔を赤らめ、俯いた。
彼はまだ15なのだ。16になる来年の春、ようやく成人とみなされる。
あまりにもよく補佐として勤めてくれているため、漣はすっかり忘れていた。
彼の気遣いに心が暖かくなると同時に、もっとしっかりしなければとも思う。

「ほんとうにありがとう、紫稀。いつも頼りにしてるわ」

更に撫でてやると、紫稀は赤い顔のまま手を振り払った。

「礼を言われるほどのことではないですよ。でも、おれはあなたの苦労をそばで見ているから」

ただ戦場を恐れるだけなら、愚かな呪師だとなじられても仕方のないことかもしれない。
しかし、漣は癒すために戦へ赴き、消えていく命に疑問を持ちながらも戦っている。癒すことが彼女にとっての戦いだった。目の前の呻き声に、悲鳴ひとつあげず、涙さえみせたことはない。
ひとを癒すこと、それこそが彼女にとっての戦いだったからだ。
―――だが、奪うことだけが認められたこの国で、彼女の地位がどれほど危ういのかを紫稀はしっているのだ。だから尊敬するし、尊敬に値する人だからこそ支えたいと思う。頼ってほしいと思うのだ。
こどもだとは思ってほしくない、と紫稀は内心溜息をついていた。もうすぐ成人となるのだというのに。
父に漣のもとへ預けられた時から、いつも彼女は紫稀の先に立っていた。どれだけ追いかけようとも歴然とした差は埋まることはなく、縮まる気配もない。
支えたいのだと思っても、支えられるほどの力など無かった。
歯がゆい。もっと、もっと、おれに、おれに。

(こんなに強く、あなたに頼ってほしいと、想っているのに。)

だというのに、漣は安心させるような微笑みを浮かべるだけだった。
それは同時に、残酷でやさしい、嘘の笑みだと紫稀は感じた。

「・・・紫稀、疲れたから自室に戻るわね。仕上げてしまいたい書類もあるし」
「―――・・・」
「・・・・紫稀?」

窺うような声に、紫稀は我に返って顔をあげた。

「・・・はい。ゆっくりお休みになってください」

それを言うだけが精一杯だった。
去っていく彼女のつややかな黒髪の揺れる様を、紫稀はじっと見つめていた。
揺れる様を見るだけで、堪えていた想いが、溢れそうだった。

(こんなにすぐ傍にいるのに)

我ながら女々しい初恋だと、思った。



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