一章 珠洛








その夜、溜まった資料の整理をするために、漣は書庫へと荷物を腕に抱えて歩いていた。
長い回廊の白い柱の連なりは、月が青白く照らし、寒い夜だったが、鯉が放たれた庭の池もきらきらと揺らめいて、昼間のすさんでいた心が穏やかに落ち着いていくような気がした。
その澄んだ空気に思わず息を吸うと、漣はふ、と顔をあげた。

「だれ?だれかいるの…?」

書庫へ続く回廊ではなく、反対に曲がった奥の薄ぐらい闇のなか、僅かにガタリ、と音がした気がする。
常であれは気にならないはずのそこが、なぜかただならぬ気がして気になって仕方がなかった。
じっとその闇を見つめ、腕に抱えた書物を抱きしめた。
「そこ」は魔物が封じられているという間だと、以前伝え聞いた気がする。
伝え聞いた時は何とも思わなかったのに、今は訳もなく緊張を覚え、背中がひやりとした。

(もしかして、魔物の封印が解けたのかも知れないわ。)

呪師は自分の直感を何より頼りにしている。呪を唱えるときに空気の震えだとか気の流れが欠かせぬものだからだ。わずかな環境の変化に敏感に反応するのは、呪師としての自然な感覚だった。
だからこそ戸惑う。まったく気にも留めなかったそこが、今は何よりただならない。
漣は唇を噛んだ。風が吹き抜けて、彼女の濃紺色の袴を揺らした。

(自分は呪師だ。それならばもういちど封印をしなければならない)

一瞬、上司である呪師長にご報告したほうがいい、と伝達のために呪を使おうとしたが、呪師の住む官舎にほど近い守りの強固な場所に封じられているくらいだ、少しの呪の言葉にも気付いてしまう魔物であるかもしれない。
ならば魔物に呪を施すのが先だ。
なぜ封印が施されるほどの間の前に呪師がいないのか、疑問に思うことは多いが、それは目の前の魔物を封じてからどなたかに尋ねればいい。
思いなおすと、ごくり、とやけに喉の鳴る音がした。
それこそ魔物に聞こえたのでは、と思うほどに。 みえない気配にそれほど緊張しているのだった。
――――しかし、私は呪師だ。
陛下を、そして国を脅かすものに立ち向かうのが使命。
どくり、どくりという心臓の音をなるべく無視して、印をきるため右手の人差し指と中指を交差させ口元に当てた。
じりじりと、音のするほうへと歩きだす。 近寄ると、空気が変わり、強い封印の呪の気配がした。 漣はすこし目を見張り、それから息を吐く。

(気持ちの悪くなるほどの悪意と負のにおいがする。この呪をかけた者は、よほどの呪師だろう。呪師長か、あるいはもっと上の・・・・。)

思えば思うほどに、この場に誰もいないのが不思議だった。それほど封じ込めておきたいものがこの中にいるというのなら、一縷の隙も与えないほどの呪師で固めてしまえばいいのに。
禍々しい気配に崩れそうになる膝を叱咤し、ようやくそれのそばまでやってくる。
驚くべきことに目の前にあるのは、一見してみると白い障子紙が貼られた、いたって普通の戸だった。 しかし、そのなかから、たしかに強い呪の気配と物音がする。 そろり、そろりと戸に手を延ばし触れる。
一瞬、ぱちり、と手が痺れたような気がした。もっともそれがはっきりとわかるような強さではなかったが。しかし、なんとなくその一瞬のいたみで緊張がどこかに飛んでいった。
漣は意を決し、その扉を一気に開け放った―――!!!

暗い部屋に、目をこらす。締め切った部屋の埃くささに混じった僅かな鉄の匂いに、顔をしかめながら攻撃の体制をとろうと唇に手をあてた。だが、

「え………」

そこにいたのは。

天井から吊された鎖が手足に繋がれじゃらり、と揺れた。
わずかな鉄の臭い。伏せられた頭。幾重にも重ねられた白い衣。絹のように長い銀髪が、それの足元に広がっていた。
それは、まぎれもなく

「おんなの、ひと、……?」

ひとだと気付くと同時に慌てて呪を指先に載せて鎖に放った。もちろん、呪をとくためだ。鎖に施された縛の呪があっけなく崩れていった。
――――縛(ばく)など誰がした。これは人に使用することを禁じられているはず。

(なんて、ひどいことを!)

白い衣に滲んだ血のあとを認め、憤りを感じながら「彼女」に癒しの呪をかける。光の灯る指を交差させ、彼女の喉にあてる。 途端、ゴホッと咳込む音がひびき、首に両手をあてて苦しげに呻いた。

「よかった、気付いたのね!」

死んでいなかった。
漣はほっと息を吐き、声をかけ助け起こそう肩に手をかけた。 しかし

「無礼者!我に触れるでない!」

(……は?)

漣は払われた手に、呆気に取られて「彼女」を見つめた。驚いて抱えていた書物がバラリと落ちた。
「彼女」は痛むであろう腕を支えにして起き上がると、青みがかった腰まで流れる艶やかな銀髪を欝陶し気にかきあげた。

「何をしにきた娘。我をついに殺すのか?」

よろり、と立ち上がった「彼女」は漣を憎々し気に見下ろして言い放った。
威圧的に、憎悪で染まった碧い瞳が、漣には刺さるように痛かった。 わたしにまるで関係ないだろうし、きついまなざしで見つめられる理由もあるはずもないのに、そう言えずにただただ見つめ返すしかなかった。 それはまるで全てを許せないかのような、そんな口ぶりだ。それでいて寂しそうな、そんな………

(いや。・・・そうではなくて)

そう、そんなことより。
漣は「彼女」を恐る恐る見上げて、呟いた。

「あなた…男の子…?」

長い銀髪を腰までさらりと流す、白い衣を纏ったのは、見たこともないほど美しい、「少年」だったのだ。

「オトコノコなどと呼ぶでない!」

つりあがった目をさらに吊り上げた少年にぴしゃりと怒鳴られて、漣は思わずびくりと肩を揺らした。 少年は鼻をならして一瞥すると横柄に腕を組んだ。

「そなた…見ぬ顔だな。藍の手下か」
「っ・・手下じゃないわ!私は漣。珠洛の呪師よ」
手下という言葉が気に障り、思わず叫んだ彼女に彼は片眉を上げ、面白そうに笑んだ。

「そなた、面白いことをいうな。珠洛の呪使いが己の主は藍ではないと申すか」

漣ははっとして口を押さえた。

(何て言うことをいったのだ、私は)

たしかに私の主は藍であるはずなのに、何故咄嗟に否定などした。
…王が、王の描く理想が見えないから?
漣はその考えを急いで打ち消した。
いや、分からなくてもいい。ただ従いすればそれでいい、あのかたがきっと導いて…

でも、ほんとうに?

困惑して言葉がでない彼女を意外そうに見てから、彼は、ふ、と笑った。
息を吐くようなそれに、思わず俯いていた顔をあげると、嘲るような表情の少年がいた。

「さすが藍。官にも見捨てられておるわ。」

その言いように、少なからずむっときて、漣は彼を睨んだ。
藍の行うことをが好むか否か、といわれれまちがいなく後者だが、非礼を働いていいわけではない。相手は王なのだ。それにこれは個人的な感情で動かされていい問題ではない。

「睨むか、我を。不遜だな」

尊大な言葉とは裏腹に面白そうに少し首を傾けて笑った。その様が不思議な色気をはなって、さらに苛立った。

「あなたね、どうしてこんなところにいたのかしらないけれど、仮にも陛下に向かって、無礼にもほどがっっ・・・・!!んっ!?」

言いかけた口を突然手で塞がれ、そのまま抱え込まれる。
突然のことに、何をするの、と暴れてもさらに強く抑えられるだけだったが、漣はなりふり構わず腕を振り上げる。

「…気付かれたか」

舌打ちと共に、耳元に低い声が呟かれ、漣は身をかたくした。
後ろから腕をまわされ口を掌で押さえられた状態は、彼女が動転するのには十分だったの だ。

(ななななんなの…!)

逃げようと再び腕をばたつかせようとしたが、抱え込まれてしまっては動けない。 それに彼は知ってか知らずか、漣を抱える腕に力をいれて小さく言った。

「悪いがそなたには盾になってもらう」

それを漣が理解する前に、幾人もの足音がして、扉が開け放たれた!
す、と差し込む光に漣は眩しく感じ、反射的に目を細める。
その瞬間、衛兵に取り囲まれ槍を向けられた。

「呪師殿を離せ化け物!」

壮年の衛兵長が声高にさけぶ。同時に回りの兵がにじり寄ってくる。

「…化け物とはよく言う…」

漣を抱え込んだまま、少年は嫌悪を交えて吐き捨てた。

「陛下に退治されし闇の亡者!化け物以外の何者でもないわ!」
「退治だと…?藍は我を殺せぬ!片腹痛いわ!」

少年が叫ぶと同時に、漣は衛兵に向かってその腕から突き飛ばされた。

「きゃっ!」
「呪師殿!」

飛び掛かろうとした衛兵は攻撃をやめ、漣に慌てて手をのばす。
(たすかった…)
と思った一瞬の間。
彼女の頬を掠めて、光が衛兵に放たれた!
(なに…?)
目の前に広がるのは、ばたり、と倒れる衛兵の光景。 そして、一瞬遅れて頬に広がる激痛。 本当に彼は私を盾にして、後ろから呪を放ったのだ、と理解すると同時に、意識が暗闇へと落ちた。

――――かくして、深い闇に眠り続けた真実のかけらが、ようやく今、キラリと輝きだしたのである。




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