一章 珠洛








「藍王陛下のおなりである。」

ざわめきで満ちていた室内が、扉を守る衛兵の声に、水を打ったかのように静まり返った。
席に着いていた官吏たちは、皆一同に起立し、胸に手を当て首を垂れた。漣もそれに倣い、頭を下げながら、ちらりと扉のほうを盗み見た。
漣やほかの官吏たちが使用する扉とは別の、玉座に一番近いひと際豪奢な扉が、衛兵によって重たい音を立てながら開かれる。
それと同時に、初老のひげを蓄えた男性が、木靴と鎖帷子(くさりかたびら)の音を立てながらゆったりと入ってきた。
初老といえど、よく引き締まった体に最高位を示す緋色のきらびやかな衣装と金の帯締めにいくつも色とりどりの玉(ぎょく)を付けた彼は、まぎれもなくこの国の国王である。日に黒く焼けた腕には、そこかしこに傷跡があり、古いものからまだ新しいものまでさまざまである。
なかでも、とりわけ目を引くのが左目の上にある大きな傷跡だ。それだけで彼が、いかに戦好きでまた、力のある武将なのかが分かるはずだろう。

漣たち呪師の前を横切り、またゆっくりとした動作で玉座へ向かう階段を登ってゆく。
静寂の中で、衣擦れの音と、鎖帷子のじゃらりとした音が響き渡る。そして、緩慢な動きで漆塗りの玉座に腰を下ろすと、口を開いた。

「面(おもて)をあげよ」

静かな低音の声は、室内に響き、一同に顔をあげる。

―――すごく、威圧的だわ。

人生で最も間近に拝謁することが出来た王は、遠目に見たときと同じか、それ以上に鋭い眼をしている、と漣は思った。左目の傷跡が、それをさらに増幅させているようだ。

珠洛の属する六大陸は、ひとつひとつの大陸に何十と国がひしめき、その一国一国に王がいる。
どこの大陸でも同じだが、王になるためには身体のどこかに王である証の複雑な模様で描かれた紋章がある。王になるためには、王族の直系であることが条件であり、何人もの王子・王女がいた場合、そのなかのひとりにこの文様が現れ、前王の文様は消える。よって王位継承権は一人にしかなく、成人になると紋章を有する王族が引き継ぐことになるのだ。
―――しかし、それによって王位簒奪を企むことがない、というわけではない。
確かに、王族の一人にしか紋章は現れない。
次期国王として、幼いころから大切にされる。しかし、その子供が何らかの病にかかり、亡くなるときには、また王族の中から新たな紋章保持者が現れるのだ。
その子どもがなくなれば次の子どもへと紋章は移ってゆく。
―――つまり、だ。紋章保持者を殺せばまた王族のなかの誰かが王位を得ることが出来るのだ。
そのため、何世紀にもわたり、争いの絶えない国々が多い。
六大陸のなかの一国である「珠洛」も例外ではなかった。

「はじめよ」

玉座に深く腰を下ろした藍王が低く言うと、その階段わきに控えた衛兵が王に向かって一礼をしてから口を開いた。

「先達ての呪師昇級試験について、告示していた表彰をとり行う。ありがたくも直接陛下のお言葉を賜ることが出来る、心して前へ出よ」

漣以下、予め告知されていた呪師ら6名は席から立ち上がると、階段下に敷かれた赤布の上に跪き首を垂れた。
そこまで移動しながらも、漣は内心ひどく焦っていた。

横目で見やった呪師たちはみな、戦に赴き戦う者――戦方(いくさがた)と呼ばれる部署に属する――ばかりだった。癒しの呪師は、彼女だけだったのである。
つまり、藍王の興味の対象は戦に出ない漣だけということになる。

(そりゃあ、覚悟していたわ。呪師長と同じように陛下から戦へ出ろと言われるだろうって。でも、私だけなの・・・?)

愕然とした。
珠洛が、わたしたちの国が、いつのまにか軍事大国として発展を遂げていた。王宮に上がって三年、戦の匂いのするこの国にずっと嫌気がさしていた。
けれど、国の向かう方向を決めるのは王であり、王を支えていくことが私たちの役目だ。お諫めするなど、恐れ多いことだ。
それに、わたしが諫めなくても「他の誰かが」それを成すのだと勝手に信じようとしていた。しかし、どうであろう。
この国はもう、何かとても大きな波に動かされ、それに従うしかないのではないか。
そんな感覚が、漣の胸を突きぬけていき、同時に何とも言えないわだかまりだけが残った。

「これより成績優秀者を表彰する。―――軍事部、戦方、崔慈(さいじ)。」
「は」

玉座に座す王の低い声で、呼ばれた者が顔をあげる。
漣にとっては見知った顔だった。赤茶けた髪をまとめた精悍な顔つきの彼は、漣より年上ではあるが最も年の近い同期だ。
鋭い褐色の瞳が、まっすぐに王に向けられる様は、真摯で忠実な兵士の顔である。
筆記試験では彼女が勝ったかもしれないが、実技試験では彼の右に出る者などいない。
圧倒的な戦力を持ち、その呪は王の右腕になると目される、有望な人材である。

「見事な呪であった。これからも余によくつかえよ」

王の声に、崔慈は赤い首を床に擦りつけるよう垂れた。
それを始めとして、順々に同じように名を呼ばれ、頭を深く垂れてゆく。

(一言陛下に声をかけて頂くだけで、打ち震えるようにして頭をさげてゆく・・)

漣は、何とも言えない気持でそれを横目で見た。
まるで、彼らは戦で絶ってきた幾人もの命を踏みつけてゆくようだ。出世のため、己の欲のためにする戦に正義など、何処にもないというのに。

(だめだ・・・わたしはきっと、彼らのようになれない。でも・・・)

急に不安が押し寄せて、この王宮にたった一人になったような気がした。心臓がきゅっと痛み、その場に蹲りたくなる。

誰もいない。
だれも、いない。
血と、戦と、欲でしかこの珠洛で生き抜く道はないというの?

「最後に、最優秀で昇級試験を突破した誉れ高いものを表彰する。」

ざわり、と会場全体がどよめくのを漣は屈めた背中越しに感じた。
しかしそれは、称賛ではない。背に刺さるのは、戦に出ぬものを冷たく嗤う嘲りの目だ。

漣は無意識のうちに、片手で胸をきゅっと掴んだ。
戦は嫌だ。人が死ぬ。村の子供のように、親のいない子が増える。
そうだというのに、もう、『王宮の中にたった一人だということ』に愕然として、怖くなったことが事実だ。
整然と並ぶ彼らのように、戦をすることに決めてしまえば、この苦しみから解放されるのかもしれない。
しかし、そんなふうに考えてしまう自分が、死ぬほどいやで、同時に、それしか道はないことも漣は分かっていた。
このまま出世をし、育ててくれた母に楽をさせたいというのが自分の夢だったのも確かだったからだ。
そのためには、戦に出るしかない。彼らのように陛下の言うままに赴いて、陛下の言うように他国を脅かしてゆく。国と、陛下と、母のために。

「――――癒し方(いやしがた)、漣。余の前へ」

しん、と嫌に静まり返った室内に、藍王の野太い声が響いた。
漣は気づかれぬよう息を吐くと、是、と答え静かに立ち上がった。
官服である袴の裾を乱さぬよう音もなく歩き、階段に足をかける。
心中穏やかではなかったが、顔に出すほど子どもではなかったし、出したら最後、足元をすくわれる王宮を三年間生きてきた。

(大丈夫よ、余計なことは考えない。)

段を登り終えると、藍王より数歩離れた柔らかい敷布に足をつき、ゆっくりと腰を折る。
結いあげた長い黒髪が、するし、と白い衣の背に流れた。
流れるようなその動作に、あるものは見惚れ、あるものは嫉妬した。
しかし、そのどちらも、漣に対しては好意的ではなかった。
ますます背に刺さる視線に、漣は深く頭を下げながらもう一度ひとつ、息を吐いた。

「そなたが、漣、か」

すぐそばから発せられる王の声に、漣は思わず身を固くした。一気に口の中に水分が無くなり、答えるのが困難になるほど緊張していた。それでも、なんとか言葉を発した。

「は。本日はご機嫌麗しゅう、陛下。このような場をいただきまして、光栄にございます。」
「よい。顔をあげよ」

漣は、答えると、体を起こす。
目の前に、藍王が玉座に深く腰掛けている。しわの刻まれた初老の王だが、鳶色(とびいろ)の瞳は鋭く、左目に刻まれた傷跡が見る者を圧倒する。
しかし、そうまじまじと眺めて良いはずもなく、漣は礼に反しない程度に、目をそらした。

一方、王は、じっとりと鋭い眼で、目の前の女性官吏をひげをなでつけながら舐めるように観察していた。
黒いつややかな髪に、幼さを少し残した、成熟前の少女。理知的な眉が、その幼さを補い、あと数年もすればさぞ美しくなるだろう、と王は感じていた。
何度も呪師長が戦場に出るよう推していたと聞いているが、頑なに断り続けているという。

(それほど気にはしていなかった。・・・が、犀(サイ)との戦はなかなか長引くよう。欲しいな)

藍王は口元を引き上げて、笑みの形を作る。けして友好的ではない、狡猾な笑みだ。

「まこと見事な呪であった。術の力自体は、さきほど崔慈のほうが勝ってはいたが、それを上回る呪であったようにおもうぞ。」
「ありがとう存じます。」
「そなたの星占は余にとって、とても意味のあるように思う。今年の収穫祭は、そなたの星占どおりの日程に取り決めることと相成った」

星占は、漣の最も得意とする呪である。
呪を用いて、様々なことを占うが、今年の昇級試験では鎮魂祭や収穫祭など、祭事に関わる諸々を取り上げた。
祭事は、風や光や月の恵みなど自然と調和することで呪をつくる者にとっては、万物へ捧ぐことのできるもっとも重要な儀式である。
もっとも相応しい時期を選ぶことで、一年豊作が続くかどうかも決まる。
漣は、自分の呪が採用されたことに少なからず嬉しさを感じた。

「光栄にございます」
「―――して、漣よ」

少しだけ頬を緩めて答えたが、一変した藍王の冷たい声に、漣は一気に身を固くした。

「そちは、戦に出ぬと聞く。―――何故だ?」
(来た―――!!!)

呪師長に告げられてから覚悟はしていたが、想像していたのと実際とでは全く異なる。
またしても緊張で口が渇いた。

(私は、いったい何がしたいの)

頭の中はそればかりだった。
先ほど一瞬でも戦に出て戦うことを考えてしまった。今までのように負傷者の手当てをするだけではなく、前線に立ち呪を用いるということ。
それはつまり、人を殺めることを意味するのだ。

(こわい、こわい、でも、)

でも、母に楽をさせたい。よりよい術を身につけて、里のみんなを幸せにしたい。
腕をあげ、呪師として立派な人物になりたい。それが彼女の夢。

(そうよ、戦に出るだけじゃないの。呪を紡いで、放って、それだけじゃない)

たったそれだけで、漣の王宮での居場所が出来る。
たったそれだけで――――――

『でもね、お母さん。わたしは殺したくはないな。とても甘いことかもしれないけれど、わたしは戦うより癒すほうがいい。城を守り、陛下や人々の癒し手となって、この国の行く先を占っていたい。学舎(がっこう)の葉眞(ようしん)のような、親のいない子どもを作りたくないの』

―――――――――――・・・

(・・・・ああ、そうだったのだわ)

漣はきゅ、と袖口を握った。
投げ出してしまうことはあっても、捨ててはならないことがあったのだ。
いつだったか、七里の母親にはっきりと告げたあのときのこと。
たったひと月前なのにひどく遠く感じる。
藍王の一言で揺らいでしまうくらい脆い信念に、漣は情けなさで笑ってしまうところだった。
誰かを守ると言いながら、他の誰かを傷つける道を選びそうになっていたからだ。
唇をかみしめる。
今もまだ、緊張は少しも拭えないが、譲れないものの一つぐらい守りたい、と彼女は思っていた。

「どうだ、漣。返答は」

黙り込んだ漣を前に、藍王は痺れを切らしたように問いかけた。
苛立ちを含んだ声音に、漣は意を決したように顔をあげた。
真っ直ぐな黒曜石のような瞳と、厳しい鳶色の瞳がぶつかって絡み合う。

「私は」

わたしは、

「――――しがない、呪師の端くれです。人一人の命を背負えるほどの力などございません。あるのはただ、この国と、陛下を導く星占の力と、みなさまをお助けする癒しの呪だけ。私はこれまでどおり、いえ、これまで以上にみなさまに安心して戦っていただけるよう、癒し手でありたい」

声が震えたが、漣はそっと告げた。
逃げている答えだと思うが、彼女にとってはこれが精一杯の答えだった。
結局争いは終わらないし、癒すだけでは戦が終わるどころか続いていくだろう。
しかし、癒すことで何も変わらないことは無いのだと、彼女は信じているのだ。

「それが、そなたの答えか。」

藍王は、玉座のひじ掛けに持たれて、頬杖をつき、先ほどと変わらない声音でじっとりと漣を見つめて問いかける。
漣は王の逆鱗に触れなかったことに少なからずホッとして、頭を再び下げた。

「はい。私はこれからも癒し手として――」
「甘いわ」

しかし、跳ね付けられるように言い捨てられた。
漣はぴくりと肩を揺らし、頭を下げた姿勢のまま、目を見開いた。
その様子を眺めて、王は吐き捨てる。

「そなたの言いたいことは、よう分かった。」

漣は拳を握ったまま答える。

「私はただ、癒し手として――」
「癒し手としてだけ戦に参る?馬鹿を申すな。そなたは珠洛の官吏で、余の武力だ。呪師は戦闘の要として存在するのだ」

藍王は目を細め、憎々しげに漣を見る。

「それを、ぬけぬけと戦は出来ぬと申すか。痴れ者めが!」

空気を割るような怒声に、漣は身を固くした。
この場にいた者誰もが、藍王と漣の様子を息をつめてうかがっていた。

(やってしまった・・・・陛下の、逆鱗に触れた・・・)

項垂れたが、漣は自分の意志に嘘はつきたくなかった。後悔はしていないが、王の一言で極刑が下るかもしれない状況が、ただ単純に恐ろしかったのだ。
震える体に喝を入れて、彼女はゆっくりと身を起こした。
しかし、再び視線が絡まる前に、藍王は漣に言い放った。

「―――次の戦闘は、戦に、戦方として参加せよ。先ほどの戦に背くような言動、普段であればこの場で切り捨てておったが、そなたの能力は捨てるに惜しい。次の戦で余の信頼を得よ」

漣は瞠目した。
こうなってしまっては、藍王の言葉通りに動くほか道はないのだ。
官吏にとって王は絶対で、これは選択ではなく命令であるからだ。

漣は少しだけ俯いて、息を吐く。乾いた息が、噛みしめた唇を撫でてピリリと染みた。
無力で、ちっぽけで、ただただ情けなかった。
彼女は諦めたように乾いた笑みを浮かべて、呟くように『是』と答えた。
それしか、道はなかった。



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