一章 珠洛








長い回廊を、先導の年若い補佐官とともに進む。
傾い西日が、長い影を作り、あたり一面を赤く染めていた。
漣は、ときおりまわりの美しい庭園に目をやりながら、歩を進める。
鳥の高い鳴き声と、キラキラと煌めきながら流れる水、そして軽やかに跳ねる魚の音があたりを満たしていた。

あまりの平和さに、ここで暮らしていると、戦のことなど忘れてしまいそうだった。
それだけ守られた城であり、確固たる地位を刻む藍王の存在が余計に恐ろしかった。

実際に顔を拝したことはない。
遠目にだけなら、年始の祝いの時に官吏の末席ではあるがお会いしたことはある。しかし、朗々と流れる支配者の声だ、とそれくらいの印象しか残っていない。

(ただ・・・・)

ただ、今も七里の村で起こった事件のことが忘れられない。黒い覆面の男の腕に、巻きつくように彫られた、守人の証。
何度も否定はした。そのような考えさえ不敬になるのだから、さっさと忘れるにこしたことはない。しかし、否定すればするほど、忘れられなくなるというのが人間というものだ。

父に呪を学び、父のように人に尽くす呪師でありたいと思い、官吏になった。
けれど、癒すだけでは許される環境ではなかった。珠洛のために、藍王のために、呪で人を殺めて国を統治することが、呪師に求められているのだと知り愕然とした。そんなことのために学んできたわけではない、と憤った。
しかし、そう思ったところで職を辞そうとは思わなかった。
呪師になりたいと思い、これまで乗り越えた苦難を無駄にしたくはなかったし、村に戻れるほど子どもでもなかったからだ。育ての親の澪のことは、本当の親のように愛してはいたが、これ以上迷惑をかけることはできないと思っている。だから、このまま都で呪師として安定した仕事に就いているほうが、自分のためにも、そして澪のためにもいちばんいいのだと思っている。

(でも・・・・)

傾きかけた太陽が、漣の頬を赤く照らし出す。
ざわめきが歩を進めるたびに聞こえ、陛下の御前が近いことが分かる。
藍王陛下の出陣祝いと、先日の昇級試験の上位者の祝いを兼ねた宴だと先導の補佐官から聞いたため、あの広い部屋には戦へ赴く呪師や兵士たちが溢れかえっているのだろう。
彼女はひとつ息を吐いて、歩みを止める。

―――陛下に、お尋ねする?

自分に問いかけて、一瞬の間の後、すぐに否定する。
一介の呪師がそんな大それたことが出来るはずもない。万が一にもお声をかけて頂く機会があっても、駄目だ。不敬だ。

「漣どの?」

はっと我に返り、前を行く補佐官に目を向ける。
不思議そうな表情で自分を見つめる瞳と出会った。


「どうかされましたか」

冷たい声で、淡々と告げられる。

「ああ・・・申し訳ない。なんでもありません」

漣は苦笑して返答した。
彼は、漣を一瞥すると、ふ、と息を吐き、また前を向いて歩きだす。
その何とも言えない取っつき難さに、また彼女は苦笑を覚える。

補佐官である彼、紫稀(しき)は、漣の呪師としての仕事を補佐する少年だった。
漣と3つほど年の離れた彼が呪師見習いとして彼女のもとにきたのは、城仕えを始めてから二年目の春のことだった。貴族のひとりから、「呪師の仕事を学ばせてやってほしい」と頼み込まれ、一人息子の紫稀を補佐官として引き取った。貴族の子弟は成人前に官吏のもとで補佐として修業するというのが王都での習わしなのである。
しかし、親の熱心さとは反対に、彼は酷く冷たかった。
銀色の短い髪に、同じ色の瞳を持つ彼は黙っていてもその容姿から冷たい印象を受けるのに、口数は少なくたまに返答してくれても、大して会話らしい会話が成り立ったためしがない。
しかし、今のように漣を気にかけてくれるということは、嫌われているわけではないらしかった。
一年も共に過ごしていれば、情が移ってくるというものである。彼女にとって彼は、無愛想だが可愛い、弟のような存在になっていた。わずかな表情の変化も今では少し分かるし、分かるということが嬉しく感じる。

「紫稀」

呼びかけると、ぴたりと止まり、律儀に体ごと向きを変えて漣に瞳を向けた。

「何か」

やはり、冷たい声。表情も同じくらい冷たい。一見、睨まれているのかと疑うこの表情が、案外彼にとっては普通であることが一年を通して知りえた一つでもある。

「あなたは陛下にお会いになったことがある?」
「・・・・今年の年始の祝いに、漣どのと共に御前を拝したはずですが」

じっと見詰められたまま答えられ、漣は首筋に手を当てた。

「ええと、そういうんじゃなくてね」

困ったなあ、というように笑って、言い直す。

「遠くからじゃなくて、目の前でお声をかけてくださったことはあるかってことよ」
「・・・・あるはずないですが」

若干ふてくされたような声を気にも留めず、漣は嘆息した。

「そうよねえ・・・」
「・・・・それがなにか」

腕を組み考えるそぶりを見せる上司に、若干の苛立ちを覚えながら声をかける。先の読めない話は、順序や理屈を重視する彼にとって、耐えがたいものだったからだ。

「藍王さまって、どんな方かしら」
「なんですか、唐突に」

品行方正で真面目な上司ではあるが、たまに考えが読めない突飛な女、というのが紫稀が漣にもつ印象だ。 彼女は、庭師によって綺麗に刈り込まれた松の枝ぶりを見ながら続ける。

「ほら、今から陛下にお会いするじゃない?事前情報を得ておこうと思って」

少しだけ上擦ったその声に、自分に隠しごとがあるのだと悟りながらも、あえて触れず紫稀は答えた。

「別に、おれに聞いたところで情報が増えるわけありませんよ。むしろ王宮勤めはあなたのほうが長いはずだ」
「それはそうだけどね、わたしとあなたの見てきたものや聞いたことは、多少なりともこの一年間、違ったはずでしょ?物事の見方はね、なにも一つじゃないのよ。同じ場所にいても、得る情報が異なることは有り得る話だわ」

不思議そうな表情を浮かべる紫稀の頭を、二度ほど撫でると、ほほ笑む。
その笑みにはっと我に返ると、紫稀はつぶやくように言った。

「・・・・陛下は、戦がお好きだということは周知の事実。戦を好み、戦場に出るものを遇しているのは漣どのが身をもってお分かりのことでしょう」
「はは・・・痛いとこ言うわね」
「事実を述べたまでです。・・・あとは・・・最近、陛下の守人が増やされた、と」

漣は眼を見開いた。

「・・・どういう、こと?」

尋ねた声が震えていないか心配だったが、幸い紫稀は気にしていないようだった。

「本当の理由など、存じませんが・・・。近々大きな戦があるから、護衛を増やしたとか何とか。しかし、護衛にしては頻繁に陛下の前からいなくなる、とも聞いたことがありますよ」
「いなくなる・・・?」

ざわり、と胸の中がうごめくのを感じる。鼓動が速くなる。 まさか。そんな。

「ひと月に何度か。理由は定かではないですが、何にしても護衛であるはずの守人が何日も御前を離れるのはおかしいと、もっぱらの噂です。密偵でも、しているのでしょうかね」

ドクドク、と心臓が跳ねているのが分かる。
陛下の、守人。七里のむらで襲った出来事。陛下の増兵。・・・そして、たび重なる不在。

―――知ってはならないことに今、触れている気がした。

恐ろしく、でも、否定できない。
守人の個人的な行動であったのではないか、と思ったこともあった。
しかし、冷静に考えて、陛下の許しなしに御前を離れることなどできはしない。護衛兵の中でも特別な存在である守人は、つねに陛下とともにあるというのが、この珠洛の国の習わしなのだから。
だから、それはつまり―――陛下の命令で、襲わせているというの?

青ざめた表情で俯く漣を見やり、紫稀が窺うような目で、問いかける。

「どうか・・されましたか」
「いえ・・・大丈夫。大丈夫よ」

そうは口にしてみたものの、漣の背には冷たい緊張が走るばかりだった。



*****



この珠洛の王宮で、もっとも美しく豪奢で、威圧的な間。それはこの、王の謁見の間であろう。
高い天井に、美しい竜が絡み合う姿が壮麗に描かれており、鋭い金の瞳が訪れるものを上から圧倒している。縁取りには金が使われ、巨大な玻璃窓が西日の日を受けて、きらびやかに光っていた。
大広間の前には、十段ほどの階段があり、ちょうどその頂上が、王が腰を下ろす玉座になっている。その場所から、普段であれば訪れた者を見下ろす形で謁見が行われるわけだが、今日は異なっていた。
大広間には何台もの卓が用意され、その一台一台に数十に及ぶ食事が並べられている。―――今宵は謁見の間で盛大な宴が開かれるのだ。
すでに次の戦に赴く兵士たちや、先の昇級試験で上位の成績を収めた呪師たちが、ざわめきながら藍王の着席を待っていた。

いましがた到着した漣は、その入口の扉の影で一つ溜息を吐く。

「毎回ながら呆れた盛大さね」
「漣どの・・・聞こえてますよ」

紫稀は窘めるように言ったが、彼も同じ印象を持っていた。

「戦の前に、よくこんなに飲むわよね。これから殺しに行くっていうのに」
「気分を高揚させて、志気をあげるのには重要です。いつの時代も戦に宴はつきものですよ」
「そうは言ってもね。何も呪師の昇級祝いを同時にやらなくたっていいじゃない。戦に出ない癒しの呪師には無関係よ」
「・・・・そういう呪師を戦に出そうとしているのではないですか、陛下は。―――特にあなたのような優秀な人材を」

漣は心底嫌そうな顔をして、紫稀を見た。

「あなたまでそんなこと言わないでよね」

そこで会話は途切れ、漣とつき従う紫稀は宴の会場へと入室した。
とたんに、冷たい視線が漣に集中する。

―――癒しの呪師は立場が悪い。そのことが嫌でもわかる瞬間だ、と毎度のことだが思う。

しかし、漣は顔色一つ変えず用意された席へと歩を進めた。

「みろ・・・戦に出ない愚かな呪師だ」
「才があるくせに、腰抜けだったか」
「所詮あいつも女だよ」
「女のくせに官吏になるな」

ひそひそと呟かれるとげのある言葉すべてを、漣は聞き流した。
言い返せば面倒なことになるし、戦に出ないと決めたのは漣自身だからだ。このことに、なんの後悔もない。戦うばかりが能ではない、癒しの呪師もかならず必要なのだと、父の教えを忠実に守るだけだ。

席に腰を落ち着けると、斜め前の呪師長と目があった。彼は、面白そうにこちらを見て悠然と笑むと、また目線を玉座に戻した。
漣はくすり、とひとつ笑みをこぼした。

―――分かってくださる方も、いる。それだけでいい。栄誉を得るために呪師になったわけじゃないのだから。

改めて揺らがないよう決意をしながら、漣も玉座に目を向けた。
ここから玉座への階段まで数歩、という非常に近い距離だ。年始の祝いの時より、格段に近い。声も、その表情のひとつまでもが読み取ることができそうだ。

―――考えてみれば、わたしは藍王の何一つとして知らない。

ただ、戦好きで戦をするものを遇する。それだけだ。
守人のことも、何もかもすべて、分からない。
だからこそ、今はこの場所から、陛下の表情や纏う空気から何かを読み取ることだけを考えよう、と漣は思った。すべてはそれからである。



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