一章 珠洛








その城は、まさに天を突き破るように聳え建っていた。
珠洛の王都・廉遥(れんよう)の中心に珠洛の要である王城が壮麗に佇んでいる。 壮麗、といえば聞こえはいいが、実のところ絢爛豪華を通り越し、ただ財力を見せつけるように煌びやかに輝いていた。 珠洛の前の王であった竜王のおだやかな治世の後、弟君に政権は受け継がれていったが、これまでの質素倹約をあざ笑うかのように国税を垂れ流し、結果王城も欲望を纏い、天を突き破るほど壮大な建築物になってしまったのである。

その珠洛の東塔の官舎で今、漣は城仕えの呪師たちを束ねる「呪師長」を前にしていた。

「・・・・休暇は、どうであったか」

豪奢な着物をまとう初老の呪師長の足もとに跪くと、白い単衣(ひとえ)に濃紺色の袴という官服姿の漣は頭(こうべ)を垂れた。
ひとつに括ったつややかな黒髪が、それとともに肩に流れ落ちる。

「羽を伸ばすことができまして、有意義な休暇をいただくことができました」
「ほ。それはよかった」

呪師長は手に持った扇で口元を隠し、当たり障りのない言葉を交わす。

――ー漣は彼が苦手だった。
やたら体格のいい体に纏う、目に痛い煌びやかな着物。それが官服であることを疑ってしまいそうになる。
贅を尽くしたそれを売れば、きっと田舎に暮らす鈴玉(りんぎょく)たちの一年分の生活を賄う事が出来るだろう。
そして、この自分を舐めまわすようなその瞳と声。
最年少呪師として漣が官職に就いてから、ずっとこの調子だった。彼女は、その視線から逃げるように俯くと問いかけた。

「戦況は、どうでございますか」

戦好きの藍王は、どこの国と言わず剣を抜く。今は隣国の犀(さい)だったか。
戦にさして興味はないが、負傷者が気にかかる。癒しの呪師である自分は、どんなにばかげた戦であろうとも目をそらしてはならなかった。

「圧倒的である。我が王が藍王様であるかぎり、この国は安泰だ」
「そうで・・・ございますか」
「なんだ、浮かぬ顔だな」

息を吐いた漣に、呪師長は首を傾けた。

「いえ」

漣はまた首を垂れた。

―――戦は嫌いだ。人が傷つくのが嫌いだ。
けれど、そう言ったところで珠洛の繁栄を喜ばぬ反逆者と罵られるのが目に見えて分かる。
漣はふ、と自嘲気味に笑った。
父のように、ひとを守る強い呪師でありたかった。父に恥じぬ、信念のある大人になりたかった。
しかし、どうだろう。今は流されて流されて。周りと同調しなければ息もできない。
幼いころからそれこそ死にもの狂いで勉学に励み、やっと手にした呪師としての役目。 国のため、陛下のため、そして民のため。
けれど今、何も見えず、ただまわりから外れぬよう生きているだけだった。

「・・・ところで、漣」

物思いにふけっていると、頭上から呪師長の声がかけられて我にかえって慌てて答える。

「はい」
「そちは戦にはでぬのか」

(またその話・・・・)

ぼんやりしていたことを気づかれず、それにほっと胸をなでおろしながらも、漣は呆れたように眼を伏せた。
戦で腹を肥やす呪師長には、多分この感情は分からないと思いながら、ゆっくりと首をもたげて、告げる。

「――はい」
「もったいないことよの」
まるで漣がその言葉を返すことが分かっていたかのように、一呼吸も開けずに呪師長は呟いた。
否、分かっていたように、ではない。分かっていたからだ。
目の前の聡明な面立ちの年若い呪師は、ここに就いてからずっとそうであったためだ。
最年少で難関を突破した、しかもはじめての女性官吏。 強靭な、そして欲深く進むことのできる心の持ち主だと、期待していた。

―――しかし、所詮は女だった。

あろうことか、戦には出ぬ、と言った。迷いなく、真っ直ぐに。
戦で、その並はずれた知力と呪を発揮すれば、ただそこには輝かしい道が約束されるというのに。名誉も、名声も、金も、金銀財宝、あらゆる欲望も。

―――しかし、女だった。

まるでそんなものには興味がなく、ただただ傷ついたものを癒し、占いを好む、ただの弱い女だった。 興味がないのではなく、怖気づいたのであろう。ひとを殺めることに恐れをなし、泣くだけの脆弱な心しか持ち合わせてはいないのであろう。
呪師長である自分が会議に出向くたび、周囲から何度も「有能な女性呪師」について、癒しではなく戦に出る呪師にしてほしいと頼まれていた。
しかし、やはり弱く愚かな女には変わりない。

「そなたは、弱いな」

蔑むように言うと、漣はくっと口角を上げて微笑んだ。

「それでよいのでございます」

この女の腹を読むことはできない。
戦に怖気づく弱い女だとは思う。
けれども、ときどきはっとする笑みを浮かべる。それが何なのかは分からない。ただ時折、儚い様な笑みを浮かべるのだ。

「漣、それならば」

名を呼ばれ、彼女はそっと呪師長を見上げた。
視線が絡むと呪師長の顔に好色の表情が浮かび、彼女は咄嗟に身を引こうとした。
――ーーしかし、その前に呪師長の年老いた皺の刻まれた分厚い掌が、彼女の顎をとらえた。

「なにをなさいます」

少しだけ震えた声に、呪師長は嗤った。
嘲るように。
金銀財宝、なんだって。―――女だって。

「戦に出ずとも、金銀財宝、あらゆるものが手に入る方法がある」

ぐ、と手のひらで顎を押し上げると漣が少し眉根を寄せた。
秀麗な白い顔がゆがむのを見て、呪師長はさらに笑みを深くした。
もっと、この娘の歪んだ表情が、見たい。
親指でつ、と娘の張りのある唇を撫でると、さらに不快そうな顔になる。

「お戯れを、呪師長」

口では嫌悪を示すが、あくまで相手は上官である。
結局何もできない娘に、己の支配欲がふつふつと湧いてくるのを、呪師長は感じていた。

「戦が怖いか。ひとを殺めるのがそんなに恐ろしいか」

唇の上を親指が往復する。

「―――はい。おそろしゅうございます」

嫌悪で親指にかみつきそうになるのをどうにか堪えながら、漣ははっきりと言った。

「ふ、所詮は女だな。戦いにゆく勇猛さと名誉が分からぬとは」
「わたしには分かりませぬ。呪師長の仰るように、勇気の無い女でございます。」
認めるだけの漣に、最早呪師長は笑みしか出ない。
――ーけれども、己を見上げる強い瞳に、強い声に、次の瞬間固まった。

「おそれながら」

ひたり、と漣の瞳が見据えられる。

「わたしには、ひとを殺して得る名誉など、重荷にしかなりませぬ。ひとを殺めて幸福になる、それが疑問に思えてならないのでございます」

呪師長は驚いた。ここに配属されて3年、ただただ弱いばかりの娘と思っていた。なのに、この強い瞳は、信念を刻み込む強い唇は、なんと勇ましいことだろう。
しかし、すぐに平常心を取り戻すと彼は言い放つ。
「―――それ以上ぬかせば、陛下への反逆とみなすことになるがよいか」

陛下は武を尊ぶ。呪師長は竜王の時代から仕えているが、藍王の時代に変わってから彼は武芸を磨くことにより、駆け上がるように出世の道をたどることが出来た。
竜王の生ぬるい平穏な治世は己にはあわなかったのだ、と今の地位から振り返って思う。
血の匂いで高揚感を得る時代が、今はただただ好ましいと思うばかりだ。
なのに、目の前の娘は、それがいやだと言ってのけた。

「もちろん分かっております。癒しの呪師など、陛下のお気には召さないことぐらい」
「分かっておって言うならば、お前は愚かだ」
鼻で笑うと、彼女は尚も言いつのった。

「愚かだとは重々承知しています。反逆罪にあたることぐらい」
「・・・ではなぜ儂の前で言うのだ。おまえを今捕えることなど、儂には造作のないことだぞ」

不可解だとばかりに呪師長は漣を睨むと、彼女はまるで答えていないとばかりに、ふ、と息を吐いてほほ笑んだ。

「――それは、呪師長。あなたさまとわたしは、今二人きり。信頼する呪師長になら、お話してもよい、と思ったのです。よもや部下思いのあなたさまなら、陛下のお耳に入れることはないだろう、と考えてのこと。・・・・そうでございましょう?」

見上げてくる魅惑的な頬笑みに、呪師長は一瞬見惚れる。 そして、言葉をなくした後。
――――盛大に笑った。

「愉快だ、まこと、愉快だ!」

(この娘、儂を手玉に取ろうとしておった!)

これでは、この娘の信頼を裏切ることなど、出来るわけがない。
いや、本当は陛下に告げることなど造作の無いことではある。
しかし、娘の返答は、陛下の栄光と娘自身の命を秤にかけた、一種の賭けのようでもあった。その采配を、この娘は己に任せたのである。
ただただ、それが愉快で、呪師長は笑った。
ただの愚かな女だとは思っていたが、なんと見事で大胆な娘。

「―――そなたが癒しの呪師であること、分かったような気がするぞ」

そう告げて、娘の顎にかけてあったままの手のひらを放してやった。
相当嫌悪していたようだから、離した瞬間に溜息でもつくかと思えば、漣は変わらずじっと呪師長を見つめるだけだった。
それがまた見事で、老年の呪師長は今度は違う意味をこめて、勿体ない、と呟いた。

「そなたのような呪師が戦に出れば、あらゆる名誉は手に入るだろうに」

すると、漣は綺麗な笑みを浮かべて答えた。

「名誉より、ひとを救うことで得る充足感が、わたしには何よりも尊いのでございます」

(何を言っても無駄だな)

呪師長は肩をすくめて息を吐いた。 すでにそこには、さきほどの目の前の少女を蔑み侮る気持ちは微塵もなかった。
漣はそれを悟り、ようやく緊張が薄れた気がして息を吐いた。

「漣」
「はい」
「癒しの呪師はやはり解せぬが、そなたのことは分かったような気がするよ」
「・・・・わたしもひとを殺める名誉は分かりませんが、呪師長のことは尊敬しておりますよ。」

この三年、癒しの呪師として肩身の狭い思いをしてきたのは事実。けれど今、理解を示してくれた呪師長がただ単純に尊敬に値すると感じていた。
自分をただの女として蔑んでいたようだが、ひとりの人間として信念を認めてくださったようだ。
少しだけ、居心地の悪い官吏という職に小さな居場所のようなものを得た気がした。

「もっと早くにそなたと腹を割って話しておれば、よかったかもな」

呪師長は顎に手をあててふ、と笑った。
漣も同意するように笑むと、呪師長は思い出したように告げた。

「おお、忘れるところであった」
「?なにか」

またたきして見ると、上司はじっと漣を見た。

「今宵、宴がある。陛下の出陣祝いだ」
「はい。呪師長の警護でしょうか?」
「いや、そうではない」

また、漣は瞬きを繰り返した。
宴など、癒しの呪師である自分には縁がない。戦で名をあげた呪師などが参加する為、いつも自分は給仕か、もしくはどなたかの護衛をしていた。
そのため、否、と言われ、訳が分からず首を傾げるしかなかったのだ。

「そうではないとは・・・。でしたら、給仕でしょうか?」
「そうではない。そなたも出席するのだ」
「なぜわたしが?」

間髪入れずに言うと、呪師長は笑った。

「名誉に思わんのか」
「そんなことより何故呼ばれたかが問題です。癒しの呪師のわたしを、なぜ陛下が出席を許すのです?」
「―――そなた、この間の昇級試験の結果を知らんのか」

年に一度、呪師はその力量を試されることがある。それが昇級試験だ。
その時ばかりは癒しの呪師も戦の呪師も同じように勉学に取り組み、良い成績を収めれば昇給する。

「そういえば、存じませんでした。わたしとしては昇級よりも落ちていないかということのみが重要ですので」
「落ちるわけがなかろう!」
突然怒鳴られて、漣は肩をすくめた。

「な、なんですか、突然」
「そなたは、他に例を見ぬほどの成績を収めておったわ。呪師長の儂すら羨むほどにな。特に星占など、国の先を良く見据えた、素晴らしい測定であった」
「は、はあ。でしたら落ちたということは・・・」
「あるはずがないだろう!」
再び怒鳴られ、漣はまた首をすくめた。

「・・・・だからそなたの出席が許された。おそらく陛下は、そなたを戦に出そうとするだろう。儂の比にならぬほど、陛下の押しは強いだろうよ」

くつくつ、と笑うと、漣は嘆息した。

「陛下にお会いしたことはありませんが、藍王様の頼みなど、一介の呪師に断れるはずがないでしょうに・・・」
「当然無理であろうな。儂を通しての誘いであれば今までのように断ることはできようが、陛下直接のお達しとあれば、そなたに断る権利などない」
「・・・・」
「光栄だと、思うことだ」

にやりと笑うと、漣は肩を落とした。

(分かっていて言っているから尚腹立たしいわ)

心の中で毒づき、ジトリと睨むと呪師長は盛大に笑った。

「栄誉をいらぬなどと、まこと面白いおなごだな!」
「わたしはただ、心静かに過ごしたいだけでございます」
「―――それでは生きて行かれぬぞ。この城は魔物の巣窟だ。」

ひたり、と見据えられると、漣は苦笑した。

「分かっておりますよ。それでも、わたしはわたしのままでありたい」
「やさしさは身を滅ぼすぞ。他人(ひと)を踏み台にしてのし上がれ、そなたにはそれだけの技量がある」

言い募る呪師長に、漣はもう一度苦笑して首を振った。

「わたしは愚かな女でございますから」

強い瞳に、これ以上は無理だと諦めて呪師長は嘆息した。

「・・・もうよいわ。行け、せいぜい陛下に可愛がられることだな」
「ふふ、ご遠慮願いたいものですね」

困ったように笑うと、漣は滑らかな動作で立ち上がり呪師長に向かって一礼し、踵を返した。



*****



随分と埃くさくなった仕事部屋に一瞬顔をしかめ、新しい空気を入れ込むために漣は玻璃(はり)窓を押しあけた。
心地よい秋風が、空間を満たしていくのを感じ、「よし」と喝を入れるように伸びをすると、窓際の作業机に向かい、溜まった書類に目を通し始めた。
戦を好まない自分に与えられた部屋は、他の同期より畳二つ分ほど狭く、それだけで随分と嫌われていることが分かるのだが、隅に追いやられたこの一室は王都と思えぬほど閑静で、窓からのぞく庭園の池の見事さも相まって、彼女にとっては心地よい職場環境になっていた。

「犀(サイ)ねえ・・・・」

指先でつまみあげた書類を、頬杖をつきながら見つめる。
隣国「犀(サイ)」は漁業で成り立つ平和な小国である。竜王の時代は、輸出入が盛んで大使も招いたはず。王都の学校には交換学生もいたと聞く。
それが、藍王の時代になってから、植民地として統治すると一方的な決定が下りた。
当然、犀は抵抗を見せたが、それが藍王の逆鱗に触れて、粛清の対象となっている。

――― もう、何カ月も続いている。 平和な国は、血の海と化し、犀の内部では藍王派と犀派の二分化されている。国土は荒れ果て、民は喘いでいる。その嘆きが、王都のすぐそばでも聞こえそうだ。

(もう、思い出したくもない)

癒し手として戦場に押し出された時。気が狂う、とはこの事かと思った。人が焼ける臭い、焦げ臭い、手、瞳。そして、慟哭。

アア。

顔を覆った。息を吐き出す。胃液が、ぐるり、とのど元を張っていく。

結局、あの場にいて助けたのは我が国の民だけ。目の前で犀の民があえいでいるのに、ただただ繰り返し繰り返し、呪を紡ぎ、指先が光り、当て、治り、隣の惨状には、目を向けず。

「わたしも、結局殺したのね」

殺すことで得る幸福なんてないのだと信じながら、わたしは、今こうして毎日を生きている。それが現実に甘んじている結果なのだ。確かにわたしはこの瞬間も殺しているのだろう。自らの平和のために、誰かの死に目をそむけているのだろう。

―――ああ、藍王。いったいあなたはどこへ向かうの。

ふ、と息を吐く。
なぜ、かの王は殺すことでしか満たされないのだろう。奪う事でしか満たされないのだろう。
疑問は募るばかりだが、わたしは自分可愛さになにもしないのだ。いつもいつもそう。

(これなら本当、わたしも立派な人殺しの加担者だわ)

王だけが悪いんじゃない。止められない臣下であるわたしたち、戦で潤う事に酔う民たち、すべてが犯した犯罪だ。

(だったら、陛下を・・・・止めるべき?)

そんなことを考え、漣はかぶりを振った。
―――わたしは、ただの、呪師なのだ。一体何が出来る?

ああ。

息を吐く。一介の民にすぎない私が、なんて恐れ多いことを。
永遠に繰り返す。疑っては、従う。それしか、ただの民に道はない。

漣は深く息をはくと、首を振った。
―――そう、ただの民。だからわたしは陛下の進むべき方向を占うだけ。
それが唯一、陛下への諫めにもなるだろう。

「失礼いたします」

物思いにふけっていると、正面の扉が数回たたかれた後、開いた。
見慣れた年若い補佐官だった。何、と瞳で尋ねる。

「陛下が、お呼びです」

ニコリともせず、淡々と告げられた召集に、漣は息を詰まらせる。
―――噂をすれば、ね。

ふ、と息をはくと漣は立ち上がった。


/目次/