一章 珠洛








窓から零れる斜陽が、七里(ななさと)の村の瓦屋根を紅色に光らせている。
暫くすれば、この部屋にも明かりを灯さねばならないだろう。風の心地よくなったこの季節、ともすれば日が落ちていくのも本当に早くなっていた。

「―――そして、この六大陸のひとつである我が国”珠洛(しゅらく)”を創造なさったのが、先代の王”竜王”様」

漣(さざね)は、建国の書をぱたりと閉ざし、古びた木製の教卓の上に置いた。

「竜王様は珠洛をそれはたいそう愛してくださり、お守りくださったけれど、15年前に弟君に後を任されてご崩御なされたわ」
「師匠(せんせい)」

小さな教室の左端で、今年学舎(がっこう)に入った幼い少年が右手を挙げる。
漣はにこりと笑む。

「何かしら、葉眞(ようしん)」
「ごほうぎょってなんですか?」

小首を傾げた少年を見て、彼女は首に手をあてた。しまった、と思った時の彼女の癖である。

「ええとね、お亡くなりになったってことよ。ほら、今の珠洛の王様は”藍王”様でしょう?」

それを聞いて、今度は葉眞の隣の少女が声を上げた。

「師匠は竜王様に会ったんでしょ?都でお仕事してるんだから」

すると、そのまた隣の最年長の栗色の髪の少年が苦笑した。

「馬鹿言え鈴玉(りんぎょく)。師匠は三年前に官吏になられたんだ、藍王様しか知らないよ」
「そっか。じゃあねえ師匠、藍王様はどんな方?」

ざわめき始めた教室をぐるりと見渡し、漣は苦笑した。
休暇で三年ぶりに故郷に帰り村長に頼まれて学舎で教鞭をとっていた。しかし、子どもたちは皆都の官吏が珍しく、王城の煌びやかな話が聞きたくてたまらないらしい。
きらきらとした子供特有の目が周りを囲み、漣は困ったように首に手をあてた。

(あーあ、これじゃあ”国史”の授業もできやしないわ)

国史はこの国の成り立ちを知るだれにとっても大切な歴史だ。
しかし、この授業を続けられるとは、残念ながら思えなかった。

「ええとね、みんな」

漣はこの小さな教室にいる子どもたち、すべに聞かせるように呼びかけた。
そうすると、どの子どもも興味深そうにこちらを見つめてくれるのだ。子供たちを教えるのはほとんど初めてであるが、自分が子供たちの世界を広げているのだと思うと、どこかくすぐったい心地にさせられる。

「わたしがしている仕事、女官みたいに陛下のお世話をさせていただいたり、文官のように政務に直接関わりはしないの。だからそんなに陛下にお会いする機会はないのよ」

そう告げると、子どもたちは残念そうに呟く。
都の城で働く者はみな王と直接かかわっていると思っていたらしい。
残念ながら、自分はそれほど在籍が長いわけでも(何しろまだ3年目)地位が高いわけでもない。 呪師(しゅし)という珍しい立場にはいるが、ただそれだけである。

「じゃあ、何をなさっているんですか?師匠は呪師なんでしょう?」

鈴玉が好奇心たっぷりに訪ねてきた。
子どもは大人の、周りの官吏のように人の腹を探り合ったりしない。こうした何の裏もない問いかけが、都にいた時分には忘れており、この好奇心を隠さない素直な問いかけが嬉しかった。

「そうよ、わたしは呪師。この国の未来を占ったり、怪我をしていたら癒すことをしているの。もちろん癒すばかりでなく武官のように戦う呪師もたくさんいるわ。」

戦好きで知られる藍王の時代、戦場で生きることを選ばない呪師には出世の道はないと言われた。だがわたしにはどうしても人の命を奪ってまで出世しようとは思えなかった。呪はそんなもののためにあるとは、どうしても思えなかったのだ。

「・・・でも、わたしは癒すことが好きだから戦にはいかないわ」

そう微笑んで告げると、葉眞は歯を見せて笑んだ。

「師匠らしいや」

藍王に王位が委ねられてから、戦が増えた。この少年の父親も戦で行方が分からなくなったと聞いている。優しい少年の笑みが、とても切なく、心の底からのものではないこともよく分かっていたのだ。

「ねえ師匠、わたしも呪師になりたいわ!なれるかしら」

漣の袴の裾をひっぱりながら告げる鈴玉に、漣はにこりと笑って腰をかがめた。

「そうね、師匠もあなたくらいの歳からそうなれたらって思っていたから・・・きっとなれるわ、大丈夫」
「本当!?」

その一言で顔を輝かせた少女に漣は声をたてて笑う。

「でも道は厳しいわよ。あなたの苦手な国史もちゃんと勉強するって約束する?」

少し意地悪く付け足したが、鈴玉は肩を怒らせて答えた。

「するわ、する!ちゃんとするから!」

その言葉にまわりの子供たちが囃し立てる。

「どうだかなー。鈴玉の”する”は一日と持たないもんなー」
「うるさい!するったらするんだから!」

腕を振り回し今にも泣き出しそうな鈴玉を、笑ってなだめてやりながら、漣は授業の終わりを告げた。



*****



教材の準備をしていたら、すっかり真っ暗になってしまった。
冷たい外気から身を守るようにして体を丸めて歩きながら、目の前の瓦屋根の家の窓から立ち上る煙に、漣は自然に頬を緩めた。
国の採用試験に合格し、故郷の七里から都に出て3年、自分で家事をこなすことは覚えたが、こうして煙を上げ帰りを待っていてくれる家があるというのは、たまらなく愛おしく感じる。

「お母さん、ただいま戻りました」

カラカラと音を立てながら扉をあけると、背中を丸めた母親の澪(みお)が芋の皮をむいていた。 ほつれた白髪を耳にかけると、彼女はこちらに向かってにこりと笑った。

「遅かったね、漣」

そうして笑うと、深く刻まれた皺がより深くなる。 母、というよりはもう祖母のような年齢だ。
彼女と漣には血のつながりはない。川に流された漣を拾い上げたとき、彼女はすでに初孫がいてもおかしくない年だった。 あれから十八年が経ち、夫はすでに他界したが、漣とふたりこの家で過ごすことが心地よく、本当の娘のように漣の成長が嬉しかった。

「明日の国史の教材作りにね、手間取っちゃって」

筆やら書物やらで重たい革の包みを自室の机の上に置きながら答える。襖もなく間取りも狭い質素な部屋のつくりではあるが、こうして話すときに何の隔たりもなく話すことのできる我が家が漣は好ましかった。今もこうして居間と自室で別々ではあるが、襖がないので顔もうかがうことができる。

「でもあんた、明後日にはもう都へ立つだろう?なにも無理に頼まれた仕事にこんなに力を入れることないんだよ?」

澪は心配そうにこちらに声を向けたが、とうの漣は安心させるように手を振って言った。

「大丈夫よ、たかだか一週間の事だもの。子どもたちも素直でかわいいし、教えがいがあるわ」

それに、と今日の出来事を思い出して微笑んだ。

「今日なんてね、呪師になりたいって言ってくれた子までいたわ。わたしがほんの少しだけど、子どもたちの未来を広げているって思うと・・・・くすぐったいけど嬉しいわ」
「そうなのかい?あんたが楽しけりゃ別に言うことはないけど・・・」

澪は呆れたように呟くと、最後に剥き終わった芋を水に浸す。

「無理はしちゃあいけないよ、なにしろ呪師として大変な思いをしているだろうし」
「・・・・わたしがお父さんと同じに癒しの呪師の道を選んだこと?」

お父さん、と親しげに呼んでいるがもちろん澪と同じように、本当の親ではなかった。 しかし、幼い自分を守り育てた彼のことを、彼が病で亡くなってなお慕い続けている。 こうして自分が呪師として生きていられるのも、父親の教えの賜物であると常に感謝をしていた。

「だって・・・父さんのお仕えしたころは竜王様だったからよかったけどさ、今は・・・弟君の藍王様の政だろう?ここにも聞こえているよ、戦に赴く呪師は遇されるってさ」

城に残る守り手の呪師は風当たりが悪いそうじゃないか、と心配気にこぼす澪に漣は溜息した。
もちろん、自分の未来を心配しての言ってくれたことであると思う。澪の言うとおり、戦力にならない漣に周囲の視線は冷たかった。なまじ呪師の採用試験の成績が優れていたため、多くの人々は何故戦の場に立たないのかと首を傾げる者たちばかりであった。

「でもね、お母さん。わたしは殺したくはないな。とても甘いことかもしれないけれど、わたしは戦うより癒すほうがいい。城を守り、陛下や人々の癒し手となって、この国の行く先を占っていたい。学舎(がっこう)の葉眞(ようしん)のような、親のいない子どもを作りたくないの」

まっすぐに自分を見つめてくる漣を、澪は満足そうに見ていた。
肩まで伸びたぬばたまのような黒髪と、芯の強そうな漆黒の瞳。白く柔らかな曲線を描く顎と、紅い唇。親の目から見ても、うつくしい娘に育ったと思う。まるで自分には似ていないが、彼女は川原で拾い上げたときから、自らの大切な子どもである。
うつくしく、そしてやさしい心を持ってくれた彼女を、亡き夫と自らとが育て上げたという幸福感と誇りで胸が熱くなった。 澪は漣のそばで立ち、情愛をこめてその柔らかな頬をなでるとふわりと笑った。

「なんにしても、お前らしくおやりなさいな。お前はもう立派な大人だと自分で思ってるだろうけど、母さんはね、お前がまだ愛しくてたまらないんだから。辛くなったら戻っておいでね」

そう言って澪が漣の額に軽く唇をあてると、漣はくすぐったそうに言った。

「あんまり甘やかすと、ほんとに戻ってきたくなっちゃうでしょう?冗談でもやめてってば」
「おや、冗談なんかじゃないさ。漣が戻ってきてくれるなら・・・そうさね、婿でも貰って早く母さんに孫をみせておくれ」
「ええ〜なんかお母さんが言うと、ほんと冗談に聞こえないなあ・・・」

焦って首に手をあてた彼女を見つめ、それから澪は今度は居住まいを正し真面目に告げた。

「・・・漣。しっかりおやりなさいね。母さんはずっと応援してるから」

漣は微笑んで澪のふくよかな陽だまりのにおいがする体を抱きしめて、頬をうずめる。

「ありがとう、お母さん。大好きよ」

子供のように甘える十八の娘の頭を、澪は愛しそうに撫でて微笑んだ。



*****



その夜、漣は月明かりに照らされた窓辺で、蝋燭をつけて仕事をこなしていた。
休暇中といえど、呪師として毎日記録をつけることは欠かせないことである。
呪を唱えるには、この地の水や空気など自然の要素が関係する。僅かな変化や乱れでさえ発動に支障が出るのだ。乱れを無視し、発動を続けると呪師自身の体に負担がかかり、命さえ縮めることもある。だからこそ、あたりの「気」に意識を向けることは怠ってはならないのだ。

「今夜は、とても澄んでいる」

そっと空を見上げれば、月が冴え冴えと輝いていた。
僅かに開いた窓からは、冷たい風がそよいでおり、時折彼女の頬をかすめた。
思えば故郷の風は、いつも漣にとってやさしいものであった。 彼女にとって誇れるものといえば父に教えられた呪である。だからそれを活かしたいと思い都に出たのは至極当然のことと言える。 しかし、試験を終えてようやく働き始めた都の風は、とても重たいものであった。 痛い、ともいっていいだろう。発動するたびに拒まれるような苦痛を漣はいつも感じていた。

「陛下は、何をお考えなのかしら・・・」

漣は頬づえを付いて嘆息した。

―――都の風が痛いのは、彼の方の戦好きのせいだ。

まわりの官吏はどう思っているかは知らないが、少なくとも漣はそう確信していた。
呪は本来、正常な空気の中で行うものである。
しかし、藍の王は多くの戦で大量の死者を出している。そのせいで風が病んだ。 その風を酷使して呪を唱えるのだから、苦痛を伴うのは仕方のないことなのだ。
それはわかる。
だが、そもそも藍の王はなぜ戦ばかりなさるのだろう。

―――どなたかに相談できればいいのだけど。

漣はそう思い、また嘆息した。
それができれば、このように悩まずすむのだ。
陛下が一体何をしようとしているのか、風を痛ませてまで得たいものは何あるのか。 それさえ知ることができれば、このように悩まずに済むのに。 しかし、誰かにそれを尋ねることはできない。
なぜならば、陛下の真意を尋ねるなど不敬にあたり処罰の対象になるからだ。
官吏は陛下のためにあり、陛下を信じ、陛下を支えぬく。 それこそが、官吏に与えられたもっとも大切な掟である。

『民は陛下を愛し、官吏は陛下を支えぬく』

漣も、竜王の時代であれば、何の疑いもなくそう信じていただろう。
しかし、藍の王の政へ移り、呪師として都へ来てから、時折陛下が恐ろしく感じることもあるのだ。
もちろん漣自身は日が浅い呪師であるから、直接顔を拝したことなどない。
しかし、風の運ぶ血の臭いから、そう思わざる得ないのだった。

―――いったい、陛下は何をお考えなのだろう。

周りの官吏の誰一人として陛下を疑っていない。何も言わずとも、共に過ごせばそれは感じ取ることができる。 だから余計に、誰かに尋ねるようなことを思いとどまってしまう。
漣はふ、と息を吐いた。

「わたしがおかしいのかも、しれない」

都があんなにも孤独だとは思わなかった。
疑問に思うことを素直に口にすることもできないまま、過ぎ去っていく日々の虚無感。 それを確かに感じていながら、目を閉じて知らないふりを続けていく。 それはただひとえに、自分が皆と同じでいたいだけのためだ。同じでいなければならない。 ひとたび別のことを口にすれば、さらに孤独になるだろう。
だから、わたしの思いには蓋をして、陛下を信じよう。陛下を信じて生きてゆけば、なにも迷うことはない。 漣は最後の記録をつけ終え、ぱたりと閉じた。
冴え冴えと輝く月に一瞬目をやり、何度目かのため息をついて、窓を閉ざそうと手を伸ばした。

――――なに?

わずかな気配に、漣はその手を止めた。
山間の村であるから、熊か狸か餌を求めて降りてきたのだろうか
そんな風にも思ったが、漣は念のために窓枠に手をついて身を乗り出した。
じっと暗闇に目を凝らす。 冷えた外気が肌に痛かった。

――――ひと?

ぼんやりと見えるそれに、さらに目を細めた。
離れた民家の下に、黒くうごめく影。
そして、月明かりにキラリ、と閃くもの。
瞬間、広がった高い悲鳴に、反射的に窓枠に手をついて飛び越えた!
裸足の足で地面を踏み駆けながら、唇に右手の人差指と中指を押し当て、呪を紡ぐ。 この地のすべてに、祈るように、願うように、許しを乞うように。 指先に、あたたかな光が集中してゆく。
そして、指先にともる光を、影に向かって投げつけた。 光は辺りを照らしながら、影に向かってまっすぐのびてゆく。

「うわっ!!」

光に吹き飛ばされた影が地面に転がり、野太い男の声が悲鳴を上げた。
照らし出された男は、顔を抱えながらうずくまっている。 そのまま男の首筋に拳を叩きつけて意識を奪うと、漣は再び民家に向かう。

(野党だろうか?)

先ほど聞いた悲鳴は女性のものだった。
中から聞こえたはずであるであるので、恐らく複数いるのだろう。 こくり、と喉を鳴らして空いた窓から入り込んだ。
するり、と入り込んだそこは、やはりいくつかの気配が入り混じっていた。 ここに住んでいる住民は、顔見知りの夫婦と、その子供だけである。
共に暮らす者をそれ以外見たことがなかったから、あきらかにこの複数の気配は異常である。 板張りの床をならさないように、足に意識を集中させて室内を移動する。
月明かりを頼りにして、開け放たれたドアから、そっと視線だけを中へ移動させた。

(・・・・・!)

漣は目を見開いた。

「何をしているの!」

思わず怒鳴りつけた彼女の視線の先には、女性と子供を抱え上げる覆面の男がいた。
ちらりと見やると、女性と子どもはどうやら気を失っているだけのようで、少しだけ安堵する。
すると、体格のいい男は舌打ちすると、漣に向かっていきなり飛びかかってきた。

「き、・・・きゃ!」

思わずあたりに転がっていた花瓶を相手に投げつける。しかし、一目で訓練を積んだとわかる男には、虫を払うように剣で払い落されるだけだった。 花瓶の割れる音だけが、虚しく響いた。

(馬鹿だ、わたし)

漣は呪師だ。国を守る術を使うことができる。
しかし、突然襲いかかられれば、術を紡ぐ余裕などあるわけがない。

(なんて、馬鹿なの)

様子を陰で伺って、そこで術を紡げばよかったのに、視界に飛び込んだ光景に思わず飛び出してしまった。自分の考えのなさにあきれる。 だが、呆れてばかりではいられない。
じりり、とにじり寄ってくる男に漣ののどはごくり、となった。
勝機は一度だけだ。
術を紡ぎながら男の一撃さえ交わせば、呪は完成する。それだけの時間があれば。
そして。
彼女の右手が唇にあてられると同時に、男が飛びかかってきた。
男の剣がこちらに振り下ろされる瞬間、漣は勢いをつけて真横に飛び出した!
肩に走る鋭い痛みとともに、投げ出した体が床にたたきつけられる。 剣に肩をさかれたが、急所を避けることができた漣は、痛みに顔をしかめながらも完成した呪を男に向かって放った!

「うわ!!!」

避けきれなかった光の粒が、男の腹部に重たく叩きつけられ、鈍い悲鳴を上げて巨体がよろめいて倒れこんだ。 彼女はもう一度呪を紡ごうと、男に意識を集中させて指先を唇に持っていく。

(つぎはどこ、どこを狙えばいい どこを狙えば、どこを、どこを・・・・・)

緊張とかつてない不安とが渦巻き、彼女は思ったように集中できない。 指先が震え、唇は呪を紡がない。 背中をひやりとする汗ばかりが流れていく。
そうしている間にも、地面に手をつけて男がよろよろと立ち上がり始めた。 漣は急所を探すように、男の傷ついた体に目を走らせる。
すると、肩口の黒服がさかれたところに目がとまった。 黒ずんだ、腕。上腕部に広がったそれが、古い傷跡のようにも見えた。 何気なく目についたそれに、恐怖ではなく違和感を覚えて目を凝らす。
傷跡のようにも思えたそれは、紋様だった。
黒ずんだそれは、蛇。蛇がとぐろを巻いている。 どこかで見たことのある、おぞましい柄。 あれは、たとえば朝の祈りの間で、たとえば光の落ちる廊下で。
―――そして、陛下の御前で。

(なんで・・・・それが、この男に・・・・)

思わず、手を握りこんだ。
冷たい汗が背中を伝っていくのがわかる。
あるはずがないのだ。あってはいけない。
これは国の要。国の盾。そして、守人。

「陛下の守人が、なぜ」

口から零れた言葉に、目の前に転がる男は反射的に飛び起き、紋様を隠すように腕を抱え込んだ。 鋭く開いた瞳孔が、ピタリと漣を捉える。
視線が絡み、緊迫した静寂が包む。
刃のような瞳が、彼女の印を刻んだ指先に留まった。
男はしばらくひたり、と彼女のそれを見つめ、それから、フ、と嗤った。
「―――そうか、呪師」
呟くが早いか、男は身をひるがえして窓の外へ身を投げだした。 漣は、はっとして追いかけたが、窓に身を乗り出せば、目に映るのはただ広がる暗闇と、月明かりに照らされる民家だけであった。



*****



僅かに開いた窓から、あたたかな風が差し込む。
机に向かっていた漣は、ふ、と顔を上げて七里の静かな景色を、なんとはなしに眺めていた。

あれから、数日が過ぎた。
攫われそうになった女性も子どももみな無事で、あのあと出稼ぎから飛ぶようにして帰ってきた主人から、何度も深く頭を下げられた。
結局自分は、捕える事も出来ずにただ逃がしてしまったのだから、そこまで感謝されてもどう答えていいか分からなかったが、誰もが安どした表情を浮かべていることが嬉しかった。

―――しかし、あの男の文様のことは誰にも告げてはいない。

七里のあたたかな人々に、心配をかけたくはなかったのだ。
それ以上に、告げたことで誰が信じるのだろう。
陛下の守人が犯人、など笑いの種にもならない。それよりも不敬罪にあたってしまうだろう。
もちろん見間違いであったかも、とも何度も思った。しかし、一度見たあの男の文様が記憶に染みついて離れない。
だが、万が一守人だったとしても、事件に陛下がかかわっているとは思えなかった。何処の王が自分の民を手に掛けるというのだろう。
であるから、もし本当に守人だったとしても、あれは守人の一人が起こした個人的な犯罪であったのだろう。そう思うことが、一番正しいようにも思える。

(・・・・でも、ほんとうに?ほんとうに、陛下ではないのだろうか?)

漣は、何度目かの溜息を吐いて、それから気を取り直したように筆を握りなおした。
紅い墨汁を細い筆先に浸して、机の上の答案用紙にむかった。 子どもたちの記した答案に頷いたり、可笑しくて笑ってしまうような意見に、花丸を添えていると次第に気持ちも落ち着いてくる。
わたしは唯の呪師で、ここでは七里の国史の教師。
一介の民に違いなく、何も悩むことなどない。 陛下が、陛下の守人が、などと大それたことを考えるような身分でもない。 ただ陛下にお仕えして、毎日が無事に暮らせること以上に、望むことなどないはずだ。 最後の答案に書き添えると、綺麗に纏めて鞄のなかに差し入れると、彼女はふりきるように立ち上がった。



******



「もういっちゃうの、師匠(せんせい)」

鈴玉(りんぎょく)にそう言って拗ねたように見上げられれば、漣は苦く笑うしかなかった。 休暇も終わり、都へ戻るため馬をひく彼女の周りには、七里(ななさと)の人々が集まっていた。

「また春祭りのころに戻ってくるから」

目線に合わせてしゃがんで言えば、小さな少女は今度は腕にしがみついて唇を尖らせた。

「ええー!まだ半年もあるよー!やだー師匠行っちゃやだー!」
「そうね、わたしも本当はまだここにいたいのだけど」

困ったように首に手をあてて、漣は鈴玉のおかっぱ頭を撫でた。そうすると、今度は泣きそうな眼で見上げてくるものだから、漣は笑いながら立ち上がった。

「鈴玉。泣いちゃだめよ。あなたの寂しいのもわかる。わたしも寂しいから。けれど、泣いてちゃ呪師にはなれないわ。」

鈴玉はまた唇を尖らせたが、やがて理解したのか漣の腕から幼い掌を離した。

「待っててね、わたしも師匠みたいになるから。そしたらずっと師匠と一緒よ!」
「あらほんと?そんな可愛いこと言ってたら師匠本気にしちゃうわよ?」
「してしてー!」

機嫌の直った彼女の小さな頭をもう一度ふわりと撫でると、漣は親しい人々のそれぞれに別れを告げる。

「漣ちゃん、しっかりおやりよ。」
「元気でね」
「春祭りには、たんとご馳走用意しておくからさ」

口々に声をかけられ、胸のあたりが暖かくなるのを感じる。

―――もう何度目か分からないこの別れには、いっこうに慣れることなく、彼女は少し潤んだ瞳になる。

自分はもう十分大人であると自覚している。自立もしなくてはならない。けれど、やはり別れを告げるのは居た堪れない気持ちにさせられるのだ。
それに、帰る場所があるというのも彼女を安心させるのだ。腹の探り合いばかりする都には、実際帰りたくはない。
母の言うように、所帯を持つ、ということも考えないわけではなかった。自分ももう十八であるし、官吏としての仕事を持つ以上、金銭的に苦労はしていない。 上司にも何度も見合いを進められているが、なんというか、いけすかない強欲な見合い相手の官吏ばかりであった。
いかに自分は賢いか、秀でているか、延々と述べる見合い相手に辟易する。
それだけでなく、女は家庭に入り養われておけ、というのがもっぱらの彼らの言い分である。漣が呪師として働いていること自体に眉根を寄せている。 多分上司も、うわべだけの祝いにかこつけて、扱い辛い女の官吏を早く退けたいのだろう。
本当に、腹立たしいことこの上ない。
というわけで、上司の見合い話はありがたく辞退させていただいたのだった。

それに、都で所帯を持ちたくはない、と漠然と考えている。
このまちが、七里(ななさと)が大好きだ。顔色ばかり伺い、陛下のご機嫌取りのような都で過ごすのは、仕事だけで十分だと思う。 それに、七里のやさしい木漏れ日も、高く伸びる野焼きの煙も、こどもたちの声も、すべて、うつくしいと思っている。ここがわたしが生きて死ぬ場所だと、何とはなしに感じる。

「いってきます」

漣はにこりと笑んで、足元の荷物を抱え上げた。
愛しい思いを振り切って御車に乗り込むと、窓の外でやさしい七里の人々が手を振っている。どれもこれも、輝いている。
このまちがわたしのまち。お母さんとお父さんに愛されて育った里。
ただいま、と言えるただひとつの場所。

馬が嘶き、やがて速度を上げて里が遠ざかっていても、彼女はいつまでもあたたかな里を見つめ続けていた。


序章/目次/